モヨロ貝塚の発見者・米村喜男衛(きおえ)の長男・哲英さんもまた、オホーツク文化の謎に取り憑かれた1人だ。 親子2代にわたって網走市立郷土博物館館長を務めた哲英さんに、父・喜男衛の思い出やオホーツク文化の魅力についてきいた。 |
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米村 哲英(よねむら てつひで) 昭和3年、米村 喜男衛の長男として誕生。 現在78歳。
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モヨロ貝塚との出会いが親父の一生を決めた 米村さんの家業は、床屋だったそうですね。 米村 はい、いまのアーケード街の場所で、戦前まで床屋をやってました。父は幼い頃から考古学に強い関心を持っていたようですが、専門に学んだことはなくまったくの独学でした。私が子どもの頃は、職人さんが7人いまして。親父はもっぱら貝塚通いでした。家の2階を郷土資料室として公開してましてね。子どもながらに、よくこれでうちの家計がもってるなと思いました。 その父親の出土品コレクションが、網走郷土博物館の基になったのですね。 米村 はい、「この貴重な資料が消失したりしたら大変だ、きちんと保管する必要がある」と言われ、親父がいろんな方面を説得して、当時の網走支庁長だった人を会長にして社団法人北見教育会を作ったんです。その組織を受け皿に、、鴻之舞金山を 経営する住友家から寄付を受けて北 見郷土館を建てました。なにか住友 家の家訓として、個人に対しては寄 付を行わない、というのがあるらし く、そこで何らかの組織を作ることが必要で、親父が駆けずり回ったの でしょう。おっしゃる通り、これが 網走郷土博物館の前身で、初代館長 に親父が就任しました。 父・喜男衛さんが大正二年にモ ヨロ貝塚を発見してから百年近く が経ちますが、研究者として父・ 喜男衛をどう感じていますか? 米村 親父は本当に考古学が好き だったのでしょうね。床屋になった のも、床屋ならどこの町に行っても 稼げると思ったからでしょう。まだ 若い時分、東京の床屋に勤めながら、 東大人類学教室の鳥居龍蔵先生の知 遇を得て日本人類学会(現日本文化 人類学学会)に入れてもらうなど、気おくれしない性格が、自分の幸運 にもつながったのでしょう。また、 アイヌ研究のために立ち寄った網走 でモ ヨロ貝塚を発見し、すぐに網走 に住むことを決意したようです。そ れだけ、この貝塚の異様さ、それを 発見した時の驚きが、親父の一生を 決めたと言っていいでしょうね。 |
まだまだ厚い謎のベール それがオホーツク文化の魅力 | |
哲英さんご自身は、子どもの頃か ら考古学に興味があったのですか。 米村 物心ついたときから、モヨ ロ貝塚に連れていかれましてね、親 父は子どもの私に「これが石の鏃 (やじり)だ」とか教えるんです。 その頃からうちには中央からも、い ま思えば名だたる学者が来ていまし た。そうした人たちに「息子だから よろしく」なんて親父が言うものだ から、自分の意志に関係なくその方向に進んで行ったんですよ。 では 、真剣に考古学をやろうと 思い始めたのは? 米村 大学に入った昭和二十一年 に、杉原荘介先生の研究室の一員として登呂遺跡の発掘調査に参加 しました。登呂遺跡とモヨロ貝塚は、文部省が戦後最初に取り組んだ遺跡調査事業でした。その杉原 先生から「お前の父親は、モヨロ貝塚を発見した偉大な人だ。お前 が将来北海道へ帰るにしても、この登呂遺跡調査で基礎をしっかり学んでおけ」と言われましてね、改めて親父の偉大さを知ったというか、自分も網走に帰って研究しようと真剣に思いました。 喜男衛さんのことは、司馬遼太郎さんも『街道を行く』の中で書かれていますね。 米村 はい。親父のことをトロイ の遺跡を発見したシュリーマンと並 べて書いてくれています。そんなふ うに親父を評価してくれ、息子の私としても大変光栄に感じています。 哲英さんご自身も五十年、オホ ーツク文化の研究を続けているわ けですが、その魅力はなんですか。 米村 モヨロ貝塚・オホーツク文化を遺したモヨロ人の原点はどこか、手探りで探しているのですけど、 いまだに解明できていません。私は日本の調査団の一員として、アムール川流域を中心に四回中国へ行って ますが、まだ確証を得るところまではいってません。謎に包まれた部分、それがオホーツク文化の魅力でしょうね。結局私も、モヨロに生涯を捧 げた格好になってしまいました。
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[取材を終えて] |
在野の学者・米村喜男衛翁の精神 を受け継いだように、哲英さんも定年前に退職し在野の学者として現在も研究を続けている。語り口は終始穏やかだが、遺跡調査の話しになると熱をおびるのは、やはりモヨロ人の謎を解きたいという、衰えない情熱なのだろう。 写真提供/米村哲英 |