大陸・流氷・オホーツク 浪漫を掻き立てる 古代人の爪跡

2万年前から大陸とつながっていた、北海道の古代文化

 全国各地で2万年程前の人骨が発見されているが、古代日本を語る場合、ここ北海道オホーツク地方を抜きでは語れない。

 北海道に人が住みついたのは旧石器時代(およそ2万数千年前)とされるが、白滝村(現遠軽町白滝)の白滝遺跡群は旧石器時代の遺跡としては日本最大規模の遺跡だ。

 白滝遺跡群からは、赤石山から採種した黒曜石を原料とした様々な石器が大量に発見され、この一帯が石器の製造場だったと思われる。白滝産黒曜石は、南は三内丸山遺跡を含む北東北、北はサハリンやシベリアの遺跡からも発見され、本州・大陸と交易が行われていたことを物語っている。

 大陸のつながりといえば、女満別(現大空町女満別)の豊里遺跡から、昭和32年に発見された石刃鏃(せきじんぞく)は、日本考古学回でも画期的な発見だった。 石刃鏃とは、石を縦に剥いで作った石刃を鏃(やじり)にした鋭利な石器のことである。これまでユーラシア大陸北部で広く認められていた石刃鏃が、日本列島では発見されていなかったのであるが、女満別ではじめて本格的発見がされ、これによって大陸と日本列島の石刃鏃文化が繋がったのである。


▲ 白滝にある黒曜石の露頭。


1・細石刃・・・ヤリや弓矢の先端に付けて使用したと思われる。
2・削器・・・獲物を解体するときにナイフとして使用していたようだ。
3・尖頭器・・・大型の動物を捕らえるときのやりに付けて使用していたようだ。最大のものでは36.5cmのものが発掘されている。


▲女満別豊里遺跡から発掘された石刃鏃。国内では最初の本格的発見となった。
(「女満別遺跡」昭和35年刊より)

本州の時代区分
年代
北海道の時代区分
旧石器時代


1万3,000年前

 

 

2,300年前

 

1,300年前

800年前

●北海道に人が住みはじめる
●細石刃文化

●貝殻文土器 ●石刃鎌文化
●縄文模様の土器広がる ●気候温暖化による縄文海進

●生活圏の拡大
●すり消縄文土器が全道的に広がる
●ストーンサークル、集合墓地がつくられる
●亀ヶ丘文化の影響
●金属器の使用がはじまる

●土器の縄目模様がなくなる
●本州系縄目文物の大量移入
土師器・須恵器の移入、北海道式古墳、住居にカマドがつく、
機械技術、金属器の一般化
●雑穀栽培はじまる(麦、アワ、ヒエ、キビ、ソバ)

●土器の消滅 ●チャシの築造

旧石器時代



早期



早期
前期
前期
中期
中期
後期
後期
晩期
晩期
弥生時代
続縄文時代
古墳時代






奈良時代
擦文時代
平安時代
鎌倉時代
アイヌ文化時代
室町/安土桃山時代


道東オホーツク地域は、縄文人にとって豊かな土地


▲1万年以上にわたる各時代の遺跡が確認されている常呂遺跡。


▲縄文式土器。煮炊きができる土器は、人間にとって大革命だった。

 石刃鏃が発見された女満別豊里遺跡は約7千年前のものとされ、時代は縄文時代早期だろうか。

 北海道の縄文時代は1万年前から7〜8千年間続いた。縄文時代は、言うまでもないが縄文の文禄がついた土器に由来し、人々は狩猟採集を営みとしていた。

 常呂(現北見市常呂)の常呂川河川周辺には旧石器時代から縄文、擦文、アイヌ時代までの遺跡が数多く発見されていて、竪穴住居跡が2,500以上も確認されている。これほど書く時代にわたる遺跡が遺されている地域も珍しく、各時代の比較およびシベリア、サハリンなどの北方文化の研究において重要な遺跡となっている。

 縄文時代の後期から晩期の一時期に見られる特徴に、ストーンサークルや集合墓地(周堤墓・環状土壌)があげられる。斜里のオクシベツ川遺跡のストーンサークル、朱円周堤墓がそれで、東北地方の文化が持ち込まれたものだと考えられている。オクシベツ川遺跡のストーンサークルは、現在斜里町立知床博物館の裏に、復元されていて実際に見ることができる。

 縄文時代は2千年程前に終わりを告げるが、ここから北海道と本州は別の時代をたどることになる。本州では稲作の伝来により弥生時代へと移るが、北海道は続縄文・擦文・アイヌ文化へと時代をたどっていく。極端な言い方をするならば、狩猟採集の縄文的文化が明治の時代まで続くのである。縄文時代は今より気候も温暖だったとされ、食料も豊富にあり縄文人にとってこの地は豊かな地であっただろう。

>オホーツク管内の遺跡地図を見る<


流氷とともに現れ消えた 幻の民族「モヨロ人」

 続縄文から擦文時代に並行して、日本考古学史上特異なオホーツク文化の時代がある。6〜11世紀のおよそ500年前、日本史では古墳〜平安時代に相当する。

 オホーツク文化発見は、大正2年までさかのぼる。在野の学者であった米村喜男衛が、アイヌ文化研究のために訪れた網走でふと目にした河口岸の断崖。そこは貝殻が露出したままの層となって重なり、貝のほか石器、骨角器、土器、人骨などの出土品は、どれもが他に類例を見ないものだった。この「モヨロ貝塚」の発見によって、縄文文化ともアイヌ文化とも違う“オホーツク文化”の存在が明らかになっていったのだ。

 米村喜男衛が発掘した資料を基に作られたのが、現在の網走市立郷土博物館であり、モヨロ貝塚館である。

 ではオホーツク文化の担い手、ここでは仮にモヨロ人と呼ぶことにするが、モヨロ人はアムール川流域あるいはサハリンから南下してきた海洋狩猟民ではないかと考えられている。が、彼らがどこから来た民族なのかは、今だ明快な結論は出ていない。

 回転式離頭銛に見られるような発達した漁具。海獣を象ったり、地形や魚、漁の光景を施した独自の土器や骨角器。また住居内に熊の頭蓋骨を祀ったり、独特な死者の埋葬法など、精神文化の面でも独自性が強い。

 オホーツク文化はやがて、擦文文化へと吸収され、アイヌ文化へも受け継がれていくことになる。

 歴史の時間尺で見れば、突然に現れ忽然と消えてしまったオホーツク文化とモヨロ人。

 司馬遼太郎は「オホーツク街道」(街道を行く38・旭川新聞社刊)の中で述べている。「(前略)縄文文化ほど、日本国有の文化はない。この固有性と、オホーツク文化という外来性が入り混じっているところに、北海道、とくにオホーツク沿岸の魅力がある」と。

>オホーツク文化の主要遺跡分布<


▲モヨロ貝塚館では貝塚の断面や、埋葬された人骨などが見られる。


▲モヨロ人は牙や骨を細工したものを多く遺している。特に熊は多く、信仰の対象だったのか。


▲オホーツク式土器。細く延ばした粘土紐を使った貼付浮紋、櫛の歯を押しつけたような刻文が特徴。


北海道だけで発展した 続縄文・擦文文化


▲紋別・オムサロ遺跡公園。擦文時代の復元住居が見られる。


▲擦文土器。刷毛で擦ったような紋様が見られる。


▲ 興部・豊野竪穴住居跡。擦文時代を中心とした竪穴住居跡が手つかずのまま保存されている。

 紀元前5世紀頃から本州では弥生時代へ移ったが、北海道では鉄器のみが伝来しそれまでの縄文文化を継続しながら6世紀頃まで続く。これを続縄文時代と呼んでいる。

 その後に訪れるのが擦文(さつもん)文化時代である。擦文とは、刷毛で擦(こす)ったような紋様から命名され、いわゆる「縄文」紋様は消滅していった。またこの頃になると本州との関係が深まり、素焼きの土器「土師器(はじき)」や、ロクロで成型し高温で焼いた「須恵器(すえき)」が北海道へも渡ってきた。

 擦文文化の遺跡としては、常呂遺跡をはじめ紋別のオムサロ遺跡、湧別のシブノツナイ竪穴住居跡、興部の豊野竪穴住居跡などがあり、オムサロ遺跡公園では復元した擦文時代の住居が見られる。

 擦文文化は12世紀頃まで続くが、その間オホーツク文化は擦文文化へ吸収される形で消え(トビニタイ文化)、擦文文化もまたアイヌ文化へと移った。しかし文化の流れは決して途切れるのではなく、縄文〜擦文、オホーツク文化も、アイヌ文化のDNAとなって脈々と流れていったのである。


▲湧別・ツブノツナイ竪穴住居跡。
オホーツク、擦文文化を中心とした遺跡。